ウェブサイトの感想3

反知性主義者たちの肖像 - 内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/2020/09/03_1232.html
知性を働かせずに書かれた文章。何の証明も無い主観に基づいた攻撃を長々書き連ねている。証明が何も無い。
>私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。
> ある人の話を聴いているうちに、ずっと忘れていた昔のできごとをふと思い出したり、しばらく音信のなかった人に手紙を書きたくなったり、凝った料理が作りたくなったり、家の掃除がしたくなったり、たまっていたアイロンかけをしたくなったりしたら、それは知性が活性化したことの具体的な徴候である。私はそう考えている。
>知性と反知性を隔てるものは対面的状況でなら身体反応を通じて感知可能であると私は上に書いた。二人で顔を向き合わせている状況だったら、「私」の知性が活性化したかどうかを自己点検すれば、それだけで自分の前にいる人が知性的な人かどうかは判定できる。

「知性」の定義がおかしい。自分にとって都合の良い影響を齎してくれる人間が「好き」という意味で「知性」という言葉を使っている。


>これまでのところ、この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない。

過る、過らないという基準が提示されていない。


>私たちがそれらの経験から学んだのは、経済についての専門知は、「想定内の出来事」だけしか起きないときにはそれなりに有用だが、「想定外の出来事」についてはほとんど役に立たないということであった。

私たちとは誰と誰か。経済についての専門知を軽んじているが、どれだけ経済に詳しいのか。


>リーマン予想は予想が示されてから150年経った現在でも証明されていないが、多くの数学者はいずれ証明されると信じている。数学における「予想」の存在が示すのは、平たく言えば、人間には「まだわからないはずのことが先駆的にわかる」能力が備わっているということである。 

数学の予想と予知を混同しているかの様な幼稚な事を書いている。予想が後に成って否定される事も有る、と理解した上で書いているとは思えない文章。


>私たちが「これは問題だ」と言うのは、まだ解けていないが、時間と手間をかければいずれ解けることが直感されているものだけである。私たちの知性は、自分がまだ解いていない問題について「まったく解けない」のか「手間暇さえかければ解ける」のかを先駆的に判断している。
 私たちの知性はどこかで時間を少しだけ「フライング」することができる。知性が発動するというのはそういうときである。まだわからないはずのことが先駆的・直感的にわかる。

何故一人称が「私」ではなく「私たち」と複数形なのか。


>このような「対象へののめり込み」は「ずばり一言で言えば」というシンプルな説明を求める知的渇望とは似て非なるものである。
> フェルマー予測は証明までに360年がかかった。一人の人間の寿命どころか、一つの王朝の興亡に匹敵する時間である。その予測が維持されたのは、時間の経過とともに予測の証明に「近づいている」という実感を世代を超えた数学者たちが共有したからである。

証明が無い。


>ポパーはかつて、科学者は先行する世代の科学者たちの「肩の上に立って」仕事をするという卓越した比喩を用いたことがある。

原典はベルナール。


>反知性的なふるまいは「狭さ」を特徴する。それは上に書いたとおりである。彼らは「いま、ここで、目の前にいる人たちを威圧すること(黙らせること、従わせること)」を当面の目標にしている。それ以外には目的がない。その場での相対的優位の確保、それが彼らの求めるもののすべてである。ほんとうにそうなのだ。彼らには「当面」しかない。彼らは時間が不可逆的なしかたで流れ、「いま、ここ」で真実とされていることが虚偽に転じたり、彼らが断定した言明の誤りが暴露されることを望まない。それくらいなら、時間が止まった方がましだと思うのである。この「反時間」という構えのうちに反知性主義の本質は凝集する。

反知性、という単語を討論の相手か陰謀論者の様な存在だと勝手に定義している。


>この無意味な作業のためにアメリカが五年間でどれほどの国益を失ったのか計算するのかを計測したものはいないが、おそらく天文学的な数値に上るだろう。彼が在任中に摘発できた「反逆者」は何人かの元共産党員だけに過ぎなかったが、彼が破壊したものは桁外れだった。

「おそらく天文学的な数値に上るだろう」「桁外れだった」と表現されているが具体的にどれだけなのか。


>「ふつうなら気後れして言えないこと」を断定的に語る者はその場の論争に高い確率で勝利する。

と書いた直後に

>ふつうの人間は同一性の反復に長くは耐えられない。同一の口調、同一のリズム、同一のピッチ、同一の身振りを繰り返すということはどこか本質的に反生命的・反時間的なふるまいだからである。

と正に『「ふつうなら気後れして言えないこと」を断定的に語』っている。


半分あきらめて生きる (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2014/05/14_0818.php
「平時に適した子供と緊急時に適した子供が居る」という自称一般論と、富貴の人という人間が存在し何を考えているのかという点と、今の社会は閉塞感が漂っている、という意見について何一つ証明が無い。

これはたしかにほんとうの話で、「宇宙飛行士になる」とか「アイドルになる」とか「サッカー選手になる」とかいうことを「将来の夢」として小学生が卒業文集に書く分には可憐だが、二十歳過ぎて仕事もしないで家でごろごろしている人間が語ると少しもかわいげがない。そういう人はどこかで「進路修正」のタイミングを失したのである。むろん、そういう人の中にも10万人にひとりくらいの割合で、それからほんとうにNASAに就職したり、グラミー賞を受賞したり、セリエAにスカウトされたりする人も出てくることがあるので、あまり断定的には言えないが、そういう「起死回生の逆転劇」を演じられるような大ぶりな若者は年寄りの説教など端から耳を貸さないので、こちらががみがみ言ったくらいで「大輪と咲くはずだった才能が開花せずに終わった」というような悲劇は起きないから、いささかも懸念するには及ばないのである。
というようなことを書いたかに記憶している。その意見は今も変わらない。才能というのはまわりの人間がその開花を妨害しようとすればつぶせるようなやわなものではない。むしろ「自分をつぶしにかかっている」という現実そのものを滋養にして開花するのである。説教くさい一般論ですぐにつぶれてしまうような才能は「才能」とは呼ばれない。

傲慢な意見。「真に才能有る人間は説教で潰れない」という意見は根拠が無いばかりか若者に対しては有害。存在していた才能を潰してしまう可能性、危険性について全然配慮していない。説教で才能の有る若者が潰れてしまった場合どう確認するのか。『説教で潰れれば才能ではなく、潰れなければ才能である』という定義は『水に入れて死ねば魔女、生き残ったら人間』という神明裁判と同じだ。


朝日新聞インタビュー(ロング・ヴァージョン) (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2016/01/05_1639.php
>今は移行期です。地殻変動的な移行期の混乱の中にある。グローバル資本主義はもう限界に来ています。右肩上がりの成長はもう無理です。

経済系終末論者。日蓮を信じなければ日本は滅びる、という末法思想と同じ方法で読者を脅かしている。


>社会的な関心が「成長」から「フェアな分配」に移りつつあるということを映し出しています。

足りない頭で複雑な物事を単純化してしまった結果、経済成長と分配とを二項対立として考えている。


>でも、今の社会に取り憑いている「グローバル資本主義環境に最適化するためにすべてを犠牲にしなければならない」というのはイデオロギーです。

藁人形論法。


■日本列島をどう守るか 過疎化に“100万人の引きこもり”が役立つワケ | 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/41353
知識が豊富で発想は面白いが根拠に欠け話が飛躍している。


>宇沢先生が出した20~25%の農村人口という数字にはそれほどきちんとした統計的な根拠はないんじゃないかと思います。割と直感的な数字だと思います。でも、この直感を僕は信じます。

それほどきちんとした統計的な根拠はないんじゃないかと思った根拠は何なのか。


> もう1つアイディアがあるんですけれど、それは「引きこもり」の人たちに「歩哨」をしてもらうというものです。

引きこもりはどうせ暇だろうから働いて貰おう論の一種。恐らく提案した当人はやれと言われても拒否するだろう。